<夕闇迫るここ所沢球場では今世紀最大の対決とまでいわれた大熱戦、三星のクラウンズ対読売ジャイアンツの日本シリーズの決着が今まさにつこうとしております。球界の盟主の座につくのは三星か?巨人か?3勝3敗でむかえた第7戦、得点は3―2とクラウンズわずかに1点のリードです。三星あと1人で日本一!しかしツーアウトながらファーストランナーは俊足の松本です!>
どこかの新聞社のヘリコプターが上空をゆっくりと旋回している。1塁側ダッグアウトでじっと戦況を見まもっている三星クラウンズ監督・国政道朗の脳裏には、17年前巨人軍を追放されてからのさまざまなでき事が、走馬灯のように駆けめぐった。
「あなた、お身体にはくれぐれも気を付けて下さいね。」
羽田空港まで見おくりにきた妻・桂子の姿がやけにはかなげに見えた。無理もない。前年の暮れに巨人を退団して以来、収入は一切途絶えたままだった。そのうえヨチヨチ歩きの長女・京子と生まれたばかりの克美を残して、夫は一人アメリカへ発とうとしているのだ。今でこそ海外旅行も身近なものとなっているが、当時はやはり大変なことだった。
しかしそれでも国政は行かねばならなかった。13年間巨人を愛し巨人のために闘い続けてきた国政だった。が、彼の野球観はあまりにも厳しく急進的なものだったため、当時の巨人軍に彼を理解するものは少なかった。それどころか逆に川上野球を非難するものとして受けとられ、国政は退団にまで追い込まれたのである。不本意な形で野球と決別した国政は、川上と対立した自分の野球の正当性を突きとめたかった。
―本場のアメリカに行って野球を一から勉強しなおそう・・・!
夢中になって英会話を学びはじめた国政の姿に妻も何も言えなかったに違いない。帰国後解説者を経て広島カープのコーチになるまで心理的にも経済的にも一番苦しい時期だった。
平凡な生き方をしようとすればいくらでも楽な道があったのに、屈することなく闘い続けてきたのは、すべて今日この瞬間のためなのである。日本シリーズというひのき舞台で巨人を倒してこそ、国政の野球は巨人を超えるものであり、ひいては国政の生き方が正しかったことが証明されるのだ。
―いけない・・・!
国政は我にかえった。今は感傷にひたっているときではない。ツーアウトといってもバッターはピッチャーの東尾が最も苦手としている篠塚なのだ。グラウンドをとりまくスタンドの歓声のボルテージが、また一段上がったようだ。選手は皆緊張していた。東尾も松本も篠塚も、ベテランの山崎でさえもその構えから堅くなっているのがうかがえた。
国政の横で一人の大きな男が思いつめたように何やらブツブツとつぶやいていた。
「神様・・・・どうかクラウンズを勝たせて下さい。僕はもう酒も女もいりません。どうか優勝させて下さい・・・・。」
田淵幸一だった。彼はこのシリーズで2本のホームランをかっとばし、チームのムードメーカーとしての働きも数字には表せない素晴らしいものだった。36歳にもなる男の言うことにしてはいささか滑稽ではあるが、国政には田淵の気持ちが痛いほどよくわかった。確かに昨年のシリーズでは中日ドラゴンズを破って球団史上初の日本一となった。しかし、やはり違うのである。今、眼前に立ちはだかるジャイアンツを倒してこそはじめて、真の王者として認められることは誰よりも選手たち本人がよく知っていた。田淵の声はクラウンズの全選手の叫びそのものだったのである。
――巨人などに負けてたまるか!なんのためにお前たちは苦しい練習に耐えてきたんだ。勝て・・・・! 勝つんだ!!
そのとき、勝負が呆気なくついた。
<篠崎打ったァ! セカンドゴロです! 名手・山崎がガッチリつかんだ、代わったばかりのスティーブへ・・・アウトッ! ついに・・・ついにジャイアンツが敗れました。クラウンズ2年連続日本一! おめでとう、三星ナイン!!>
ベンチにいた選手が田淵を先頭に、いっせいにマウンドを目指して駆けだした。怒濤のような大歓声が所沢球場にこだましている。
「勝った・・・・!」
国政の耳にはもう何も聞こえなかった。宿願を晴れて達成したこのとき、国政の心にはシリーズの相手が巨人と決まったときにこみあげてきた熱い思いはもはや完全に消え失せていた。今はもうまわりも者達への感謝の気持ちだけが、ただ静かに心と身体を隅々までヒタヒタと満たしていった。森コーチと握手をかわすと、ゆっくりグラウンドへと足を踏みいれた。
「ワァ——ッ。」
祝福の嵐を満身に受けて、国政は一歩一歩勝利の味をかみしめるように、選手のまつマウンドへと向かった。
「よおし、いくぞ——っ。」
田淵のかけ声だろうか、誰からともなく国政の腕をとり足をとり、歓喜の胴上げがはじまった。
まさに国政にとって生涯最高の喜びの日となったのである。
祝勝会では一人一人の酒杯に応じて喜びを分ちあった国政も、深夜ようやくタクシーで帰途についた。シリーズ中は選手達と合宿生活をおくっていたので、家族の顔がなつかしかった。
「おかえりなさい!」
門の前にタクシーがとまると、まっ先にでてきたのは京子だった。
「信也はもう寝たの。さっきまで頑張ってたんだけど、今日は克美と球場へ応援に行って疲れたのね。」
病気がちの母親を助けて家事を一切受けもつやさしい娘だった。なにぶん年頃だし、言い寄る男も結構いるらしいが、
「キチンとした方でないと・・・。」
と浮ついたところは全くみせない。国政もこのコに関しては何も心配していなかった。「あなた、おめでとうございます。」
妻は和服姿で正装していて、国政は彼女のこういう古風なところが好きだった。そして今日まで陰となってみまもってくれた妻の言葉に胸が熱くなった。
「あなた、お疲れでしょう。お食事の用意ができてますのよ。」
国政は祝辞や挨拶におわれて、祝勝会でだされた料理にも手をつけていなかった。ビールの匂いがしみこんだ衣服を着替えて居間にはいると、テーブルには妻や娘たちの料理がズラリと用意されていた。
「ほォ、豪勢だなァ。」
「だってお父さん、近所の方からも駅前の商店街からも、じゃんじゃんお祝いが届いて・・・。電話もさっきまですごかったのよ。40本までは数えてたんだけど。」
克美は皿を並べながらニコニコと笑顔を絶やさない。先日18歳になったばかりの克美はS高の最上級生で、最近は美大受験準備におわれているようだ。優等生だった京子と比べるとどうも落ち着きがないが、何事にも受け身でいることの多い現代っ子の中で、国政の信条である積極的な生きざまを弟の信也以上に受け継いでいるように思われる娘だ。そのせいでもないだろうが、野球が三度の飯よりも好きなコで、高校では野球部のマネージャーをやっていた。プロ野球にも興味があるらしく好きなチームは中日ドラゴンズだという。元ジャイアンツの父をもち中学にはいるまで広島で育った克美が、どうして中日ファンになるのかおよそ理解に苦しむのだが、おそらくかつてのエース・星野仙一投手の熱烈なファンだったことからきているのだろう。
「あなた、福田さんがお見えよ。」
家族ぐるみの付きあいである親友の福田が祝いにかけつけてくれたようだ。
喜びの夜はまだまだ更けそうもない。
ドラフト会議を1月後に控えて、プロ球界は騒然としていた。年々新人選手の実力が低下していく一方、今年は社会人、大学と不作で各球団の焦点はS高の羽田真佐に集中していた。
ところが、その羽田の動きがどうも解せないのだ。甲子園に引き続いて学校でも、マスコミはおろかプロ球団のスカウトまでシャットアウトなのである。もともと羽田は進学希望で成績もトップクラスだという情報が出回っていたが、そんなことでひき下がっていてはプロのスカウトはつとまらない。だいいち羽田ほどの金のタマゴともなれば、地元の有力者などで背後を固めている可能性が大で、契約金釣り上げのためのじらし戦法ということも充分に考えられた。
けれども、じきにそんなことではこの問題が片付かないことがわかった。とにかくスポーツ新聞の見出しからとれば“絶対断固永久プロ入り拒否宣言”なのである。「話だけでも」
というスカウトもすべて門前払い。もちろん巨人、三星のスカウトも例外ではなかった。このところ各新聞社では“羽田番記者”を特設して羽田の身近を徹底マークし、何かしら羽田の異常ともいえる言動を面白おかしく報じるだけで記事になった。
当初はかたくなに沈黙をまもっていた羽田ではあったが、この日本にいる限りマスコミを完全無視しようというのがそもそも不可能なのだ。マスコミは常に大衆の要望にこたえることを余儀なくされている。羽田のあやふやな態度がいいかげんな憶測記事を生むという悪循環で、今や羽田は完全にノイローゼ状態にあった。
日日スポーツ社ではかけだしの新米記者ではままならぬことを察し、ベテランデスクの高橋大祐が自らのりだすことになった。高橋の脳裏には甲子園でバッタバッタと打者をなで斬りにした羽田のけれん味ないピッチングだけが鮮明にやきついていた。そして、彼の名を耳にするだけで無性に何かがかきたてられるのだ。
プロ入り拒否なら拒否でいい。ならばその意向をスカウトないし新聞記者に伝えればいいではないか。なぜスカウトを怒鳴りつけたり取材陣にモノを投げつけたり、あげくの果てには半狂乱で泣きわめかなくてはならないのだ。
——なんとかして羽田と一度話してみたい・・・。
都心を離れること40分。中央線、国分寺駅で西武国分寺線に乗り換えた。羽田一家の住む東村山行きの電車はガラガラに空いていた。社の車を使用することももちろんできたが、高橋は羽田の育った環境を肌で知りたかったのだ。
途中ふと思いたって2つ手前の鷹の台で下車した。もしかしたらまだ学校にいるかもしれない。S高はこの駅から15分ぐらいのところにあった。
(なんでもいい。とにかく羽田について知りたい・・・。)
高橋はその昔何度かここを訪れたものだった。駅前の商店街はだいぶ変わってしまったが、玉川上水沿いに茂っている木々は以前と全く同じ風景だった。高橋は現三星監督の国政道朗に大学の後輩ということもあって、巨人時代から目をかけてもらっていた。独身の頃はよく自宅を訪れたもので、その国政の家がここから10分足らずの所にあった。球場ではしょっちゅう顔をあわせているのだが、最近は奥さんが病気がちということで訪問を遠慮していた。
やさしい心づかいを見せた奥さん、母親似でおしとやかな京子さん、妹の克美ちゃんはおてんばで顔立ちは父親によく似ていた・・・。赤ん坊だった信也くんはどんなにか大きくなっただろう。国政は大リーグ視察後、広島カープのコーチ務めたので一時広島の実家に身をよせていたらしいが、今はもとの家に戻って親子水入らずで暮らしているとのことだ。
高橋はふと奇妙な光景に足をとめた。S高のグラウンドが商店街のはずれにあって、そこを何人かの通りすがりの人がのぞきこんでいるのだ。高橋も一緒になってのぞきこむと生徒達がトレパン姿で散らばっていて、ソフトボールの試合をやっているようだ。体育の授業だろうか?それにしてはちょっと人数が多すぎるようである。
「すみません、何をやっているんですか?」
高橋は右隣の買い物帰りらしい主婦に話しかけた。
「あら、いえね、S高の生徒が球技大会をやっているから、ちょっと見てみただけ。大したことじゃないわ。」
「へぇーっ、面白そうですね。」
「いやぁ、あんた。」すぐ前のマルチーズを抱いた老人がふりむいた。「ソフトボールってヤツは男の子はうまいが、女の子はてんでヘタっぴいで試合にならんねぇ。」
「野球部の連中は出てるんですか?」
「アハハ・・・バカ言うんじゃないよ。ソフトボールといってもあのコらがでたら力の釣りあいがとれんわい。ほれ、あそこで審判をやっとるよ。」
グラウンドは手前が女子、向こう側が男子と2つに分けられてクラスマッチが行われているようだ。羽田の姿はどこにも見あたらない。ノイローゼ気味で学校も休みがちとのことだ。
「どうやらなんの収穫もありそうもないな・・・。」
その場を離れようとした高橋の目がグラウンドの少女に吸い寄せられた。左手にグラブをはめ、いかにも急造投手らしく不器用なフォームでヤマなりのボールをほうっている。
(あ、あのコは・・・?!)
高橋は夏の日のことを思い出した。
——全国高校野球大会の決勝戦。S高vs広島商という好カードを高橋は星野と共に観戦していた。2人のお目当ては羽田投手だったが、実力は予想以上のものだった。これほど手に汗を握る緊迫した試合は星野も高橋も随分とご無沙汰していた。
それもそのはず、羽田はこの大事な決勝戦で史上初の完全試合をやってのけよおうとしていたのだ。8回終わって被安打0、四死球0、三振17、投球数91。回をおうごとにスピードを増す羽田は、3回に自らの二塁打で先制した1点をまもり続けていた。
「こいつァ、すげぇ。本物だァ、これは。なあ、仙ちゃん。」
「ああ、やるぜ、こいつは。」
2人共、興奮で声がうわずり、喉はカラカラに渇いていた。
9回表、S高は相手の守備の乱れにつけこんで決定的な2点を追加した。アルプススタンドのS高応援団はもはや半狂乱で大喜びだ。球場を訪れた五万の大観衆に興味は一点に集中していた。羽田の決勝戦完全試合なるか?! 広島商が名前の意地を見せるか!?
今日はどんなことがあってもいの一番に駆けつけて羽田のコメントをとろうと、すぐ横の記者席は早くも先陣争いの熱気が漂っていた。おもわず肩に力のはいっているのに気がついた高橋は苦笑いした。今日の仕事をはなれて観客としてここに来ているのだ。
(これも新聞記者の哀しい宿命かな・・・?!)
それから席をたつと、
「仙、すぐ戻ってくる。」
5メートルほど先の記者席に行って、部下の天野と百瀬に声をかけた。
「おい、しっかり頼むぞ。」
天野はハッとこちらをふりむくと、
「あっ、デスク。やりますよ。必ず羽田のコメントをトップにもってきます!」
一方の百瀬は一心にグラウンドをにらみつけたままだ。入社2年めと3年めの若手コンビなだけに、やる気満々である。
(頼もしい奴らだ・・・。だが、そうリキまなくとも閉会式もあるしな。どんな事情があるかわからんが優勝ともなれば、いくら羽田だってインタビューの一つや二つ喜んでこたえてくれるに決まっている。)
どっと拍手がおこった。9回のS高の攻撃が終わり、羽田が再び姿を現したのである。
(案外、羽田もそういう効果を狙ったのかもしれないな・・・。)
小走りにマウンドへむかうその身体には躍動感があふれ、疲労も堅さも全く見られなかった。
「頑張れ~! 羽田!!」
アルプススタンドに陣取ったS高校応援団だけではなく、甲子園球場全体が快記録を前に揺れている。
先頭打者をいきなり3球3振。ホォーッとネット裏に勢ぞろいしたプロ野球スカウトたちの間からため息がもれた。続けざまに羽田は8番バッターをわずか2球でサードゴロに打ちとった。例によって帽子を目のところまで深くかぶった羽田の表情はよくわからないが、ツーアウトをとるとさっきまでとうってかわって動揺を隠せない。チラチラとベンチの様子をうかがい、なかなかモーションに入ろうとしなくなった。
星野には今の羽田の心境が手にとるようにわかった。
(このラスト1人が一番苦しいんだ。が、この羽田はきっとやる。これはツキではない、実力だ。)
打席にはいろうとした九番バッターを広島商ベンチの監督がよび戻した。
(打席か? いや、最後の激励だろう・・・。)
それを見たS高ベンチもバッテリーを呼びよせた。なかなか慎重だ。しかし、星野はこのS高側の動きはかえってマイナスだと思った。羽田の投球リズムを崩して動揺を倍増させるだけだろう。この気に及んで大切なのは開き直りだ。記録達成に関していけると踏んだ星野ではあったが、このベンチの配慮が裏目にでるように思えた。しかもそのアドバイスがやたらしつこい。ベンチの奥でなにやらコソコソと相談をしている。何かアクシデントでもあったのだろうか・・・?バッターはとっくに打席に戻っている。主審が試合進行を促しにベンチへと走ると、監督が帽子をとり二言、三言詫びを言っている。主審は定位置へ戻り、バッテリーが再びグラウンドへととびだした。いよいよゲーム開始だ。
「気をもたせるぜ・・・。」
どこからともなくこんな声がもれた。
ところが、次の瞬間、信じられないようなアナウンスが流れたのだ。
「S高、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャー羽田くんに代わりまして遠藤くん。3番・ピッチャー遠藤くん。」
球場はワーッというすさまじい歓声に包まれ、記者席は呆気にとられた。高橋もガーンと脳天を一発殴られたようなショックをうけて茫然と立ちすくんだ。全く記者生活21年、こんなバカげたことがあっただろうか・・・? なぜ羽田が降板しなくてはならないのだ。あと1人で優勝なのに——、あと1人で完全試合達成なのに——。
同業者の1人がポツりとつぶやいた。
「いったい何を考えとるんや、S高は・・・?」
誰もが今度こそはと考えていたのに、いったいなぜ・・・?
「し、しまったぁ!」
突如、高橋はクルリと向きをかえて階段へと通路を走った。他の記者たちもほとんど同時だった。ベンチ裏へ通じている控え室へと階段を駆けおりながら、皆が同じ発想にかられていた。
(羽田がなぜ降板したかわからない。だが、もしこれが意図されたものだとしたら、決勝にきてもはやマスコミを完全シャットアウトして球場の外にでるのは不可能と悟ったS高サイドがこのような手段をとったのでは?!)
しかし時すでに遅しだった。控え通路は静まりかえり、人っ子一人いなかった。おそらくベンチが時間かせぎをしている間に脱出したのだろう。
「出口だ!」
記者たちは通路をぬけ、出口へと走っていった。その中に天野らの姿を見つけた高橋は、自分のでる幕ではないことを察してその場に残った。どうせこんなことなら出口には前もって車の1台も用意してあったに違いなく、とすれば、もう間に合わない。足音が遠のいていく逆の方向からグラウンドの歓声が聞こえてきた。
(ランナーがでたのかな? いや、試合終了か・・・?)
ここは次の試合を待つ選手たちの控え室でもあり、試合後の共同インタビューの行われる場所でもあった。本当なら今頃羽田がここで記者に囲まれているはずだったのに——。
(パーフェクトが災いしたな・・・。)
最終回にツーアウトをとったらここで待機するのは取材陣の慣例となっていた。が、パーフェクトともなれば最後の1球まで見とどけなくてはお話にならない。球場係員の姿が見えないのも皆グラウンドに見いっているからに違いない。
(完敗だ・・・。)
そのとき、スタンドへ通ずる階段をフッと人影が裏切った。高橋はあわてて後をおったが、階段をのぼる後ろ姿を見てガッカリした。
(女だ・・・。S高の制服をきている・・・。)
高橋は下から声をかけた。
「君ィ、ここで何をしていたんだい?!」
ショートカットにした小さな顔がクルリとこちらを向いた。
「あっ、私マネージャーなんです。」
なるほどスコアブックをかかえている。高橋は少女の背中を見ながら自分も階段をあがってスタンドにでた。少女はスタスタとS高応援席の方へ歩いていく。高橋もつられて後をおった。
(あのコがそこで何かしら手びきをしたのかもしれん・・・。)
あれから9番バッターが出塁したらしくパーフェクトは破れたようだ。けれども次打者は2番手の遠藤に追い込まれている。
高橋はできるだけさりげなく少女にたずねた。
「ねぇ、君ィ。羽田くんはケガでもしたのかい?」
「えっ?」
ブラスバンドの演奏がやかましくで聞きとれないようだ。高橋は声をたかめた。
「さあ・・・あっ・・・!」
打球が高々と内野手の頭上にあがり、ショートはガッチリとそのままバンザイだ。マウンドではナインが抱き合って喜んでいる。まるで何もなかったかのようなおきまりの感動シーンだったが、高橋の胸には釈然としないものが残った。何かがある——この優勝の裏には何かがある・・・。
「みんな・・・おめでとう。」
小さくつぶやいた少女の声には、今日まで選手と喜びも苦しみも共にしてきたという独特の自信めいた響きが感じられ、声をかけるのがはばかられた。おくれ毛が汗でしっとりとぬれ、汗ばんだブラウスが背中にはりついて下着のヒモがすけて見えた。鼻筋のとおった横顔を見ていると高橋はふとこの少女とどこかで会ったことがあるような気がしたが、すぐにその考えを打ち消した。高橋ぐらいの年になると、この年代の女の子は皆ほとんど同じに見えてしまうものだ。
「さ、私、もういかなくっちゃ・・・。さようなら、高橋さん。」
「あっ、ああ・・・さようなら。」
この少女もおそらく固く口どめされているのだろう。全くつけいるスキがないのを高橋は第六感で悟り、ひきとめる気にはなれなかった。
大会は終わってしまった。このまま真相は永久に闇へと葬られてしまうのだろうか・・・。高橋は一人途方にくれた。グラウンドは閉会式の真っ最中だが、やはり羽田の姿はなかった。
「いけねえ、仙をはっぽりだしたまんまだ。」
ネット裏に向かいかけて、はたと足をとめた。
——さようなら、高橋さん。
少女は確かにそう言った。だが、高橋は名乗った覚えがなかった。
(なぜ、俺の名前を・・・?)
考えてみると奇妙な少女だ。
(全くS高の連中はおかしな奴らばかりだ・・・。)
これが今年の8月のでき事だった。
そして今、高橋の目の前でソフトボールのピッチャーをやっているのは、まさしくあのときの少女だった。髪こそ肩にかかるぐらいまでに伸びているが、間違いない。高橋はなんだか腹の底の方からえもいわれぬおかしさがこみあげてきた。
(おかしいのはS高の連中ばかりじゃない。俺もどうかしている・・・。)
あの少女なら自分の名を知っていたところで、なんの不思議もない。
(それにしても、女っていうもんは髪形一つでかわるなぁ・・・。)
「あっ、高橋さん、こんにちは!」
ようやくチェンジになって味方のベンチにひきあげてきた少女は、高橋に気づくとニコニコと親しげに近づいてきた。
「やぁ、克美ちゃん。久しぶりだなぁ。」
少女は国政監督の少女・克美だった。この娘なら野球の好きなコだからマネージャーにうってつけだ。それにしてもどうしてあのとき気づかなかったのだろう。羽田にふりまわされて思考回路が狂っていたとしか思えない。
「今日はどうなさったんですか?」
「羽田くんの家に取材に行くとこなんだけど、ちょっとよってみたんだ。君がピッチャーやってるとは思わなかったよ。」
「えーっ、見てらしたんですか?プレートとホームベースの間って結構距離があるんですねぇ。東尾さんとか小松さんみていにはいきませんね。慣れないことやったから右の肩が痛い。」
克美は顔をしかめて肩の関節をまわした。
「アハハ・・・・サロンパスでもはっておくんだな。1イニングで6つの四球なんて小松も真っ青だよ。」
「あっ、ひどーい!」
克美はクスクスと笑いながら軽く高橋の腕を叩いた。
「だって克美くん、野球部のマネージャーをやってるんだろ。少し羽田くんにでも教わるんだな。」
「真佐くんねぇ・・・。」味方チームに走者がでたようだ。克美はそちらに視線を送りながら「あの人は勉強に忙しいから・・・。」
「進学希望なのかい?」
「ええ、彼、頭いいから。学年でもトップクラスよ。」
「ふうん、でもなんだかもったいないなあ。どうしてプロへはいかないんだろう。」
それとなく疑問を口にすると、克美はまじまじと高橋の目を見た。そして——。
「高橋さん。」
「ん・・・・・?」
「——真佐がプロにいくわけないじゃないですか?!」
「え・・・?!」
そのときクラスメイトの数人が大声で叫んだ。
「克美ィ~、打順よ!大きいの頼むわ~!」
「OK!今行く!!——それじゃあ、また。」
克美はぴょこんと頭をさげると、足早に仲間のところへ戻っていった。
高橋はよろめくようにその場を離れながら、もう一度ゆっくりと反芻してみた。
——真佐がプロにいくわけないじゃないですか?!——
「帰れ~!」
ヒステリックなどなり声が静まりかえっていた住宅街に響きわたった。と同時に上からザバーッと水が落ちてきた。羽田が自宅の前に群がる報道関係者にたいして強攻手段にでたのだ。しかし、脅かしのつもりなのだろう。人のいないところを狙ったらしく、数人がほんのちょっとしぶきを浴びただけだった。
「何事だ?!」
たった今到着したばかりの高橋は、連日ここへ送り込んでいる能戸記者にたずねた。
「あっ、デスク。あかんですワ、コメントどころか完全にノイローゼですよ。」
確かにバケツを手に二階の窓から姿を現した羽田の顔は、苦悩で異様にゆがんでいていっせいにカメラを向けられると、ぷいと奥へひっこんでしまった。
高橋は門柱のブザーを押した。
「どちら様ですか?」
インターフォンからいらだった男の低い声が流れた。
「日日スポーツ社の高橋というものです。羽田真佐くんだね。」
「新聞記者に用なんてありません。帰って下さい!僕は・・・僕はプロへは行かないんだ!」
「プロへ行こうが行くまいがそれは君の自由だ。しかし、君はなぜこうまでマスコミを敵にまわすのかい?」
「僕は・・・。」
「そういうことは君にとってもマイナスにしかならない。」高橋は意図的に口調を柔らげた。
「君はいったい何におびえているんだい?」
ズバリ痛いところをつかれたらしく、羽田はわずかにひるんだ。
「僕は・・・僕はおびえてなんかいない!僕は何もしてやいないんだ!!」
ともかくこちらのペースにひきこまれつつある。
「羽田くん、僕はさっき君んとこのマネージャーの国政克美くんに会ってきたんだよ。」
「えっ、克美と・・・・?そ、そんな・・・。」
「本当だよ。ウソだと思うなら夜にでも電話して聞いてみればいい。僕はあのコを小さい頃からよォく知っているんだ。」
「そ、それで克美は何か言っていましたか!?」
高橋はいささかハッタリをかますことにした。
「ああ、いろいろとね。克美ちゃんはやさしいコだから、君のことも心配していたよ。」
「か、克美が・・・・!」
それにしてもこの羽田の狼狽ぶりはなんなのだろう。こいつまさか克美ちゃんにホレてるんじゃないだろうな。
「ともかく、僕らと話をすることは君にとっても大切なことなんだ。」
「———」
「このままじゃ君はノイローゼになってしまう。来春には大学入試も控えているんだろ?」
「はい・・・。」
「それじゃあ、なおさらだ。君は自分の意思を、スカウトなりマスコミなりを通して、はっきりと示さなくてはならない。」
「———」
しばしの沈黙が流れた。高橋のまわりで一問一答をはらはらしながら見守っていた記者たちがざわめいた。けれども、高橋はしっかりとした手ごたえを感じとっていた。
「わかりました。時間を少し下さい。必ずおっしゃるとおりにしますから——」
おどおどした感じはあいかわらずだが、その声は確信に満ちていた。
「よおし、わかった。信じよう!」
背後がどっと色めきたち、「さすが」の声があちこちでもれた。
その後、高橋は仕事のうちあわせもかねて西麻布のマンションを訪れた。星野は家族を名古屋に残しての単身赴任で、ここで独り暮らしをしているのだ。サイドテーブルには氷とボトルと水割りのはいったグラスが2つのっていた。現役の頃の星野は全くの下戸だったが、この生活に入ってからは薄い水割りやビールを口にするようになっていた。
高橋は仕事の話もそこそこに今日の羽田宅でのでき事を話してきかせた。この件に関しては星野も以前から興味津々だった。
「それにしても何かひっかかるんだよなぁ。」
はじめて話らしい話をしたものの、疑惑はいっこうに晴れなかった。いや、むしろ高橋の内側では新たな疑惑が沸き起こったのである。
「なんていうか、本当にごくごく平凡な高校生なんだよなあ。拍子抜けしたよ、俺は。」
「そりゃあ、おまえ高校球児なんて実態はみんなそんなもんじゃないの?」
「いや、そうじゃないんだよ。アイツはまだ自分の感情を押し殺すことのできないほんの子供なんだ。だから動揺がすぐ外に現れる。インターフォンごしに話してたって、それがビンビンと伝わってくるんだぜ。」
「・・・・」
「考えてもみろよ、仙ちゃん。ここンとこ俺たちは——いや、全国の野球ファンはあの坊やにふりまわされっぱなしなんだぜ。なんだってこんな、たかが高校生ごときを追っかけまわさにゃならんのかって思うこともあるよ。しかしな、ヤツには人を魅きつける強烈ななにかがあるんだ。少なくとも甲子園での羽田はね。仙ちゃん、あんただって羽田には並々ならぬ関心を抱いているんじゃないか。」
高橋の言う通りだった。これまでも将来性を感じる高校生を幾度となく目にしていたが、星野は羽田のピッチングをはじめて見たときの感動が忘れられなかった。なるほど確かに線が細いし、地肩も決して強くはない。しかし、そんなものはこれから鍛えればどうにでもなるではないか——それを補う手首の柔らかさ、全身のバネ、そして何よりも星野が注目したのは、バッター心理を巧みによむ洞察力とケンカ腰でバッターにむかっていく抜群のプレート度胸だった。
「ああ、そうや。羽田がズバぬけとるのは球威やコントロールだけじゃないんよ。マウンドでのクソ度胸なんや。それがプロで生きていくには一番大切なことなんやが、近頃ではどうかすると一軍のピッチャーにも欠けとる。ワシゃあ、ヤツはプロでも充分大成すると思っちょるよ。」
「そうなんだよ。ところが、今の羽田は違うんだ。甲子園のときとはまるで別人なんだ。あのときだってヤツが決してしっぽを巻いて逃げ出したというイメージがないんだ。なんていうか、こう、ガンとしてツケこむスキを与えなかったんだ。我々を見えない気迫で威圧していたんだよ。」
「ほお、なるほどねぇ。」
「ところが今の羽田はどうだ。カメラマンや記者たちから逃げまわっているじゃないか。必死で突っぱね、抵抗して・・・みじめなもんだ。ヤツは何かを恐れているんだ。」
「その何かってのが問題なんやな。」
「ああ、それが甲子園での理解しがたい行動にもつながっているんだ。こいつは俺のカンだが第三者が彼の後ろにかかわっている・・・。」
「第三者・・・。」高橋の長年の記者生活で養われたカンには絶大な信頼をおく星野だった。その高橋のカンが羽田の態度に疑惑を感じているのだ。「まっ、なんにしても羽田が心を開きかけているのはよかったやないか。で、別な観点からヤツの背景を探る手だてはないんか?」
「それがなぁ、そっちの方は夏からアチコチ手をまわしているんだがてんでダメなんよ。部員はもちろん、監督も家族もガードが固いんだ。今日だってマネージャ・・・・あっ!!」
高橋はガタンと音をたててテーブルに手をついた。
「ん?どないしたんや、大きな声だして。」
「仙、知ってるか?S高野球部のマネージャーは女なんだよ。」
「アホか!」星野は水割りにむせた。「女の話をしとるばあいか、ワシゃあ、高校生に関心をもつほど女にゃ不自由しとりゃせんワ。」
「ち、違うんだよ。そのマネージャーってのが国政さんの娘なんだよ。」
「へぇ、国政さんの・・・。」星野は意外な事実に目をまるくした。「それで、その娘も何か知っているようなのか?」
「ああ。」
高橋は決勝戦で羽田が脱出した直後、ベンチ裏で克美とバッタリでくわしたときのことを話した。
「それで今日会うまで誰だかわからなかったわけか?何年記者をやっとるんよ。」
星野の毒舌には定評がある。高橋は口をとがらせた。
「いや、髪形がさ、違ってたからわかんなかったんだよ。こう、ショートカットでさ・・・。」
「しかしなんだなあ、国政さんの娘さんねえ、国政せんは何か真相をつかんでいるのかな?」
「さあ、どうだかなあ。」
高橋は3杯めの水割りに口をつけた。グラスに映ったゆがんだ自分の顔をながめながら、
(まさか国政さんが・・・。いや、あの人に限ってそんなことはない。)
「おい、高橋。」
高橋はあわてて顔をあげた。
「確か国政さんのとこは娘が2人おったろ。どっちの方や?」
「下だ。高校三年生で克美っていう名だ。」
「克美・・・。ああ、そうか、知っとるよ。野球の好きなコやろ。俺のファンだって言うからサインボールをやったことがある。」
「ああ、そういえばいつだったか定期入れにあんたの写真の切り抜きを入れてたよ。あのコは東京の生まれなんだが、中学に入るまでずっと広島で育ったんだ。国政さんの実家があるからね。なのに中日ファンだなんて変わってるだろ?」
「まっ、それだけワシの影響が大だったわけだ!」
「まあね。」
あいかわらず単純なヤツだ、と高橋はニヤけた口もとにグラスのふちをおしあてた。
去年10月のこと・・・。評論家になりたてのホヤホヤの星野は、秋季トレーニングにいそしんでいる田淵らを取材に訪れた。そしてそこで国政監督から「練習がひけてから一緒に食事をしないか」という誘いをうけたのである。突然のことなので星野はびっくりした。それまで国政と親しくうち国政と親しくうちとけたことはなかったし、“とっつきにくい人”という既成のイメージが多分にあったのでとまどった。
(どうして俺に声がかかってるんだろう・・・?)
しかし、なんといっても就任1年めにして万年Bクラスの三星を日本一へとひきあげた国政の手腕は高くかわれていたし、星野も常日頃から国政野球の根底を見きわめたいという願望を抱いていたので、この申し出には何を放りだしてもとびつきたい心境だった。
「は、はい、それはもう、喜んでご一緒しますが、なんでまた急に・・・?」
「実はな———」国政はテレくさそうに声をひそめた。「——今日は娘の誕生日でな。家族で食事をする約束をしとるんや。」
「そんな一家水いらずの場に僕なんかがお邪魔してもいいんですか?」
「いやあ、その娘の克美が“狂”のつくほどのお前さんの大ファンでな。お前さんが引退表明してからおちこんどるんよ。そこで実物に会わせてやったらこれ以上ない最高のプレゼントなんやが・・・。」
星野はあやうくふきだすところだった。智将だとかクールだとかいわれている国政の意外な一面を垣間見たような気がしたのだ。
こうして都内のさる高級レストランで夕食を共にしたわけだが、国政はこのとき抜群の演出効果を狙って事前には何も知らせていなかったらしい。父親と一緒に現れた星野の姿に克美は大きく目を見開き、みるみる喜びが顔いっぱいにひろがった。格段の美人ではなかったが、笑顔はチャーミングだったし、いかにも国政のむすめらしくキチンと礼儀をわきまえたコだというにが印象に残っている。料理もなかなかいけたし、初対面の家族の人達ともすっかりうちとけて話は弾んだ。国政は評論家としての心得をあれこれ自分の経験をも含めて話してくれたので、星野にとpっても有意義な夜となった。
「そういえば克美ちゃんは高校で野球部のマネージャーをやっているって、あのとき言うとったワ。そうか、S高だったのか・・・。」
「今日球技大会でピッチャーやってたぜ。ぶきっちょな投げ方でさ、見ちゃいられなかったよ。」
「アハハ・・・、高橋よ、いくらお前がプロ野球を20年見てるからって、たかが女の子の草野球まで目くじらをたてるなよ。」
「そりゃそうだ。慣れないことやると右肩が痛いって嘆いてたよ。肩痛はピッチャーの宿命かな。」
「アホぬかせ。そのコは筋肉痛、ワシらのが肩痛、一緒にすな!」
このとき星野の胸に小さく何かひっかかるものがあった。
(いや、思い違いかな・・・?)
「おい、仙、まあ飲め。」
確認してみようとは思ったが、大したことではないようにも思われ、酔いがまわるにつれてぼんやりとした意識下でウヤムヤになってしまった。
——5日後。星野は所沢球場まではるばる出向いた。狭山丘陵に囲まれた所沢はもう風が冷たく、空はどこまでも青く高かった。
秋のオープン戦は若手の育成が目的なのでお客も評論家もあまり来ない。星野は来シーズン活躍しそうな若手にスポットをあてるというオフの企画でやって来たのである。クラウンズベンチを訪れるとエースピッチャーの東尾が、いいカモが来たとばかりにさっそく冷やかした。
「仙さん、ここはゴルフ場じゃないっスよ。えっ、取材?仙さんでも仕事をするんですか?へぇ~。」
東尾とは同じ昭和43年のドラフト同期生ということもあって気があうのだが、星野よりも4歳年下でバリバリの現役である。星野は負けじと言い返した。
「おおヨ、お前も来年は仲間入りだから、よォく俺の仕事ぶりを見て勉強しろよ。」
ケージの中では4年めの秋山が右に左にときれいに打ちわけている。
「どや、仙。なかなかええやろ?」
声をかけてきたのは大学時代からの親友かつ悪友の田淵幸一である。
「ああ、ええものもっちょる。来年はでてくるやろな。」
しばらく他愛もない話をしていると、星野の目が1塁側のスタンドでとまった。ガラガラの客席に女の子は2人ポツンと座っている。赤いスタジアムジャンパーを着ているのは克美だ。田淵も星野の視線をおって克美に気がついた。
「ああ、克美ちゃんか。野球の好きなコやなぁ。中間テストが終わったって最近よう来とるよ。明るくて感じのいいコでさ、あの監督さんも娘には弱いんだよなぁ。——お前ンとこの娘はいくつになった?」
「上が中2よ。」
「俺も今度は女の子が欲しいなあ。どうやったらできる?」
「どうやったらって、女房を真剣に愛してやることよ。」
「それなら俺だって・・・。」
「必死で愛してやらんと。お前は手抜きをしとるから男しか生まれんのや。」
「冗談じゃないよ。」
「浩二ンとこだってそうやろ。」
「スリーボーイズか!」
そんなバカ話をしているとすぐに試合開始時間となり、
「ほんじゃあ、ブチ、あんまりはりきってケガするなよ。もう年なんやから。」
とグラウンドを離れた。
こういった憎まれ口でも平気で言いあえる田淵らとの友情は昔と少しも変わってないのに、変わってしまったのはこの瞬間である。友人はグラウンドへ残り、星野は一人ネット裏へ——。20年以上も野球ひと筋で生きてきた男にとってのこの瞬間は、なんともはや寂しいものだった。
(よおし、俺だって今に・・・必ずもう一度ユニフォームを着てやる。そしてブチやコージと、もう一度男と男の真剣勝負だ・・・!)
そんなことを考えながら、星野は客席へと足を運んだ。赤いジャンパーを目印に克美はすぐ見つかった。
「国政克美くん!」
背中ごしに声をかけると2人共同時にふりかえった。克美はちょっと驚いたようだが、スッと立ちあがると丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、星野さん。」
手にはスケッチブックと鉛筆が握られていた。
「やあ、久しぶりだね。横の席いいかい?」
「え、ええ、どうぞ。」
星野はちょっとずうずうしく克美の右隣に座った。
「そっちの彼女は友達かい?」
「ええ、同じ野球部のマネージャーをやっているんです。坪井美子さん。」
「こんにちは。」
色白でおとなしそうな、なかなかかわいらしい娘だ。
「克美くん、絵をかくの好きかい?」
星野は克美の膝の上にのったスケッチブックをのぞきこんだ。そこはさっきまで投球練習をしていた工藤の投球フォームが、分解写真のようにいくつも描かれていた。細かな筋肉の動きがよくとらえられている。
「へぇ~、うまいじゃないか、迫力あるよ。」
克美はほめられたのでうれしそうだ。
「私はピッチャーがたった1つの小さなボールに全身のエネルギーを一瞬にして注ぎこむ、その瞬間がたまらなく好きなんです。そのほんの数秒のために鍛えられ、とぎすまされたピッチャーの投球フォームって本当に何よりも美しいと思います。」
そう言って克美はキラキラと輝かせた。
(変わったコだ・・・。だが、このコは外見に惑わされずに物の本質を見きわめる抜群の眼力をもっている。天性のものなのか、環境からきたものなのか・・・?)
確かに克美の言うとおりだ。野球というスポーツは9人の野手から成り立っている。それでも試合中お客の目は、おそらく10人が10人ピッチャーの動きを追っているはずだ。それは単にグラウンドのまん中にいて目立つからとか、ボールを持っているからとかいった次元の問題ではない。少なくとも星野はいつも考えていた。——絶えず自分の肉体の限界に挑戦しているポジションだからこそ人は惹きつけられるのだと。
克美の手は再びさっきのスケッチに線を加えはじめた。
「そうか。そういえば羽田くんもきれいなフォームをしているよ。いいピッチャーのフォームってのは上半身と下半身のバランスがとれちょる、ありゃあ、いいよ。」
「羽田くんねぇ、なにしろウチのチームにはあの人しかピッチャーがいないからねえ、美子。」
「そうよね。」
美子がフフッと意味ありげに笑った。
「ピッチャーがたった1人?」
「ええ、S高は進学校だからスポーツにはあまり力をいれてないんです。」
「今は3年生しかいないから、来年は廃部確実なんです。」
「へぇ~、そんなチームで甲子園にでたなんて大したもんだ!」
「フフフ・・・まぐれ、まぐれ。」
近年、甲子園出場校ともなれば全国の中学から有望選手をひきぬいてくることは、ごく当たり前のことされていたがS高の場合はあてはまらないらしい。
「羽田くんはどこの中学だい?」
「さあ、確か公立で・・・。美子、どこだっけ?」
「2中よ。東村山2中。」
「ふうん、で、中学のときから野球部かい?」
「いいえ、中学ではサッカー部にいたそうです。」
美子がはきはきと答えた。
「なんだか君、くわしいねぇ。」
星野が冷やかすと、「えっ、そんな・・・。」と美子は真っ赤になってうつむいた。
「チャハハハ・・・美子は真佐にゾッコンだもんね。」
克美がいたずらっぽく美子の顔をのぞきこんだ。
「そうか、君が羽田くんのGFなのか。うらやましいねえ、こんなかわいい彼女がいるなんて。——克美くん、君はどうなんだい?」
克美はちゃめっけたっぷりに、
「いいんです。私は野球が恋人ですから。」
「あのねえ~、でも、いいじゃない?甲子園の星が恋人なんてカッコいいぞ」
「あら、だって——」
美子が何か言いかけると、克美はそっと目くばせをした。星野の胸はかすかにうずいた。
(克美くんだけじゃない。この美子とかいう少女も何か秘密を握っている・・・。どういうこよなんだろう、S高は全校生徒しめしあわせて世間の人々を欺いているのか・・?!)
2人の視線はもはやグラウンドの選手たちにむけられ、星野はそれまでとうってかわって奇妙な疎外感を覚えた。
——いったい、この小悪魔たちは何をしでかしたというのだろう・・・?
ここ数日間というもの会議会議の国政だったが、この日は6日に起床して久方ぶりに愛娘の克美と玉川沿いをランニングした。入試にそなえての体力づくりを名目にはじめた克美の朝の行事で、毎朝欠かさず続けているだけあってなかなか見事な走りっぷりである。駅をはさんで商店街の反対側は市民グラウンドがひらけていたが、そこで2人は軽い体操をした。
「う~ん、いい気持ち!」
克美が伸びやかに大きく深呼吸をした。足もとの草は青々と朝露にぬれ、朝の冷気がほてったほおには気持ちがいい。
しかし、国政は午後から開かれるスカウト会議のことを考えると気が重かった。
クラウンズに限らず、優勝を狙うためにどこのチームも勝敗の7割方を左右する投手力の強化を課題としていた。特に左の即戦力とくれば言うことなしなのだが、今年の場合とびぬけた実力の持ち主が見あたらず、結局のところ将来性を重視して高校生あたりから逸材を、ということで話はまとわりつつあった。
そこで再三再四持ちあがったのだが羽田真佐その人である。羽田はあいかわらず外部の者との接触をガンとしてはねのけてはいたが、日日スポーツの高橋の説得によって声明文という形でプロに進む意思が全くないという旨を表明していた。声明文は郵送で12球団に届けられたが、その理由は“一身上の都合のため”とごく事務的な言葉で片づけられていた。
ドラフトの指名選手は6人までと厳密に決められているので、球団としてもこうまでかたくなに拒絶されてはいつまでも羽田を追いまわしている余裕はなかった。今ではいくつかの球団があらゆるコネクションを使って秘かに動いているのみで、かくいう三星も完全にあきらめきれない球団の1つだった。が、ついに交渉への糸口はつかめずに終わり、今日の会議で羽田対策は完全に打ち消せれることになっていた。
ところが、昨日国政は根本管理部長からあることを打診されたのである。有能な三星スカウト陣にはとっくに調べがついていた。国政の次女・克美がS高で羽田のクラスメートであり、同野球部のマネージャーであることも——。
「国政くん、かくなるうえは克美ちゃんになんらかの形で、羽田くんの意思を探ってもらえないのだろうか?」
突然の提案に国政は絶句した。三星グループともあろうものが、一人の女子高生が最後のツテだとは・・・!しかし、プライドを捨てたこの申し出には上層部のただならぬ決意が感じられた。
(だが、克美はまだまだほんの子供だ。美大受験をひかえた大事な時期でもある。あのコにはこういう大人の世界の問題に首を突っ込ませたくない・・・。)
「お父さん、戻ろう!」
柔軟体操を終えた克美はすくっと立ちあがると走りだした。
「よォし!」
国政も以前から克美がことの真相を握っている一人だと勘づいてはいた。大会期間中は近所に住む同級生の坪井美子と、あちらの宿で選手らと共に合宿生活をおくっていたのである。
国政は額にふき出る汗をタオルでぬぐった。
「お父さん、ファイト!」
お父さんッ子の克美は、小さい頃から国政にだけは絶対に秘密をつくらなかった。それはある意味で肉親の愛情に飢えていたからかもしれない。巨人退団劇の直後はアメリカへ野球留学に行ったりで収入もとだえ、生まれたばかりの克美は一人、広島の実家で祖父母によって育てられた。小学校にあがるときには東京に帰って京子と同じ学校に通わせてはという話もあったが、年老いた祖父母が克美を手放したがらず、結局小学校を卒業するまでひろしまですごしたのである。折しも国政は広島カープの守備コーチに就任したが、年中カープの若手育成に掛かりきりで克美にはほとんどかまってやれなかった。
そんな激動の家庭環境にあっても、克美はひねくれることなく、素直に成長してくれた。例外はあるものの、陽気で熱っぽく芯の強い広島人気質。親父の血の濃い克美は家族の誰よりも、時には国政以上にあの地にとけこんでいたようだ。非常に野球好きな土地柄もあって、克美は近所の子供たちや祖父に連れられて広島市民球場へよくやってきた。
当時はまだヒヨッ子だった山本浩二、三村敏之、水沼四郎らを猛ノックでしごく父親を見て、克美は祖父に言ったそうだ。
「お父さんはウチのことよか、あン人たちの方がかわいいんじゃね。」
それでも国政の前ではそんな不満を微塵たりとも見せない克美がいじらしく、名声も地位も得た今、克美のためになんでもしてやりたいと思うのだが、克美はいつのまにか父親の手を借りなくとも、自分の進むべき道を見きわめることのできるシッカリとした娘に成長していた。
今回のことにしても克美がはじめて国政に秘密をもったということは、よほど重大な問題なのか・・・?プロ野球の監督という父親の立場を考えたのか・・・?いずれにせよ克美がまた一つ大人になった証明で、近い将来娘たちが自分のもとを巣だっていく日のことを予感して、国政はなんだか無性にやりきれない思いにかられた。
ランニングを終えてからの朝食時には、家族5人テーブルについた。
「お父さん、コーヒーをもう一杯どうぞ。信也はミルクね、あたたかいの。」
京子のいれてくれたブレンドコーヒーの香りが、食卓いっぱいにひろがっている。克美はあわただしく朝食をますますとカバンに手を伸ばした。
「克美。」
「はい、なに? お父さん。」
克美はスカートについたパンの粉をはらいながら顔をあげた。
「克美、どうだろう?お父さんのとこはドラフトで羽田くんを指名しようと思うんだが、お前はどう思う?」
「それだけはやめた方がいいワ。真佐がプロへいくわけないでしょう?クジが一人分損よ。」
「・・・!」
克美の語調は真剣さにかけていたが、妙に説得力があった。
「それじゃあ、行ってきまァす。」
「あ、ああ、車に気を付けて。」
どうやらあきらめた方がよさそうだ・・・・。国政の胸の内はキッパリとふん切りがついた。